貧乏なりとも楽しい我が家 ― 2009/05/26 22:30
祖父の商売が傾いてきたのは、実家のそばに大きなチェーン店のスーパーができたからだ。オイルショックの影響もあり、町の商店街は寂れてきており、そう中流社会化したわが田舎でも、スーパーが幅を利かせてきていた。
結局、わが生家は、隣の工場に安いお金で売り渡すことになる。借家住まいになったのは、自分が小学生になるころである。祖父とも別の家で暮らすことになってしまった。さすがに、父も無職で子供を学校に行かせるわけはいかず、アメリカからの輸入製品をおろすマルチの商売を始める。
このころは、日本ではマルチだからと言って、敬遠する人もいなければ、喜んで商品を買ってくれる人が多かった。もともと商才があった父は、すぐに地方の支部長となり、一時期は、部下にうん千万というボーナスをだすから、と言って、家に現金を積み上げて見せてくれたりもした。その半年後である。世の中でマルチ商売が問題視され始めたのは。
父がもう少しずるがしこかったら、よかったのだろうが、被害者となった部下の分も肩代わりし、馬鹿正直に連帯保証人にもなってしまった。(この借金は父が死ぬまで請求が来ていた。)
しかし、父はめげずにマルチではない仕組みを作り、商売を続けて自分を育ててくれた。ただ、当然そんな商売で儲かるわけがない。家計は苦しく、母親も夜のスナックで働くことになる。父も、タクシーの運転手というバイトを始める。夜に家にいるのは、兄弟3人だけである。
以前から、何でも買ってもらえるわけではなかったが、幼稚園児のころは、1日50円(今の価値で500円ぐらいあっただろうか)のお小遣いが、小学生になったとたんに、月に300円となってしまった。(まあ、お菓子は別に買ってもらえていたので、実質はあまり変わらないのだろうが)
ただ、日曜日になると、父は趣味のつりに連れて行ってくれたり、近くで夜店がならぶと、母は連れて行ってくれたりもした。それなりに楽しいくらしだった。
結局、わが生家は、隣の工場に安いお金で売り渡すことになる。借家住まいになったのは、自分が小学生になるころである。祖父とも別の家で暮らすことになってしまった。さすがに、父も無職で子供を学校に行かせるわけはいかず、アメリカからの輸入製品をおろすマルチの商売を始める。
このころは、日本ではマルチだからと言って、敬遠する人もいなければ、喜んで商品を買ってくれる人が多かった。もともと商才があった父は、すぐに地方の支部長となり、一時期は、部下にうん千万というボーナスをだすから、と言って、家に現金を積み上げて見せてくれたりもした。その半年後である。世の中でマルチ商売が問題視され始めたのは。
父がもう少しずるがしこかったら、よかったのだろうが、被害者となった部下の分も肩代わりし、馬鹿正直に連帯保証人にもなってしまった。(この借金は父が死ぬまで請求が来ていた。)
しかし、父はめげずにマルチではない仕組みを作り、商売を続けて自分を育ててくれた。ただ、当然そんな商売で儲かるわけがない。家計は苦しく、母親も夜のスナックで働くことになる。父も、タクシーの運転手というバイトを始める。夜に家にいるのは、兄弟3人だけである。
以前から、何でも買ってもらえるわけではなかったが、幼稚園児のころは、1日50円(今の価値で500円ぐらいあっただろうか)のお小遣いが、小学生になったとたんに、月に300円となってしまった。(まあ、お菓子は別に買ってもらえていたので、実質はあまり変わらないのだろうが)
ただ、日曜日になると、父は趣味のつりに連れて行ってくれたり、近くで夜店がならぶと、母は連れて行ってくれたりもした。それなりに楽しいくらしだった。
大者(おおもの)になる。 ― 2009/05/25 00:50
記憶が薄くなってきている。
自分の記憶が確かなうちに、生まれたころの話を綴ろう。
「大者になる。」
自分が最初に覚えた言葉である。いまだにこれは忘れない。
単語としては、いろいろしゃべっていたであろうが、意味を持った言葉として覚えたのは、この言葉で間違いない。
生まれたときは、団塊ジュニアが大量生産された第2次ベビーブーム。核家庭という言葉が、出始めたころだと思う。しかし、その流れに反して、3世代で暮らしていたため、父方の祖父母と、父の兄弟の叔母たち(そのころはまだ、未婚だった)との同居で、商売をするための店舗と、母屋の2棟に10人ほどという、大家族であった。
祖父はもともと裕福な家で育ったと聞いている、戦時中は軍曹までやっており、家にはお手伝いも複数いて、父もお坊ちゃまとして暮らしていたらしい。しかし、戦後の混乱、祖父の兄が選挙にでるための資金集めのため、私財をほとんどなくしてしまったらしい。父の兄弟が生まれたころは、祖父はやっていた学校の先生を辞めて、魚屋という商売を始めていたと聞いている。私が生まれたときは、もうすっかり商売人だった。
ただ、商売はうまくいっており、それなりの暮らしをしていたと記憶している。そんな家庭で祖父も父も厳格であった。そのため祖父はいつもしかめっ面をして、無口だったが、初めての内孫の男子である自分に対しては、優しい顔をしてくれる。そのときに発する言葉が、
「お前は将来何になる。」
その言葉に対する自分の返事が、
「大者になる」
である。
(続く)
自分の記憶が確かなうちに、生まれたころの話を綴ろう。
「大者になる。」
自分が最初に覚えた言葉である。いまだにこれは忘れない。
単語としては、いろいろしゃべっていたであろうが、意味を持った言葉として覚えたのは、この言葉で間違いない。
生まれたときは、団塊ジュニアが大量生産された第2次ベビーブーム。核家庭という言葉が、出始めたころだと思う。しかし、その流れに反して、3世代で暮らしていたため、父方の祖父母と、父の兄弟の叔母たち(そのころはまだ、未婚だった)との同居で、商売をするための店舗と、母屋の2棟に10人ほどという、大家族であった。
祖父はもともと裕福な家で育ったと聞いている、戦時中は軍曹までやっており、家にはお手伝いも複数いて、父もお坊ちゃまとして暮らしていたらしい。しかし、戦後の混乱、祖父の兄が選挙にでるための資金集めのため、私財をほとんどなくしてしまったらしい。父の兄弟が生まれたころは、祖父はやっていた学校の先生を辞めて、魚屋という商売を始めていたと聞いている。私が生まれたときは、もうすっかり商売人だった。
ただ、商売はうまくいっており、それなりの暮らしをしていたと記憶している。そんな家庭で祖父も父も厳格であった。そのため祖父はいつもしかめっ面をして、無口だったが、初めての内孫の男子である自分に対しては、優しい顔をしてくれる。そのときに発する言葉が、
「お前は将来何になる。」
その言葉に対する自分の返事が、
「大者になる」
である。
(続く)
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